東京高等裁判所 昭和57年(ネ)1292号 判決 1983年5月31日
控訴人 木ノ原茂一郎
右訴訟代理人弁護士 高嶋得之
同 北川豊
被控訴人 小西勝之助
右訴訟代理人弁護士 麓高明
同 深道辰雄
主文
本件控訴を棄却する。
(ただし、原判決主文第一項を「控訴人(被告)から被控訴人(原告)に対する東京法務局所属公証人赤澤正司作成にかかる昭和五一年第三一五四号金銭消費貸借契約公正証書及び同年第三一五五号金銭消費貸借契約公正証書に基づく強制執行を許さない。」と更正する。)
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 控訴人
1 原判決を取消す。
2 被控訴人の請求を棄却する。
3 訴訟費用は、第一、第二審を通じ被控訴人の負担とする。
との判決
二 被控訴人
控訴棄却の判決
第二当事者の主張
一 請求の原因
1 控訴人(被告)、被控訴人(原告)間には、控訴人を債権者、被控訴人を債務者とする昭和五一年一一月一七日東京法務局所属公証人赤澤正司作成にかかる二通の公正証書すなわち昭和五一年第三一五四号金銭消費貸借契約公正証書及び同年第三一五五号金銭消費貸借契約公正証書(以下、前者を「本件(一)の公正証書」、後者を「本件(二)の公正証書」といい、両者を総称して「本件公正証書」という。)が存在している。
2 本件(一)の公正証書には、
(1) 控訴人は被控訴人に対し、昭和五一年一〇月一五日、利息は年五パーセント、遅延損害金は年一五パーセントとし、元金及び利息の弁済期並びに特約を次のとおり定めて金五九六万九〇〇〇円を貸渡した。
(イ) 弁済期 元金は一二〇回の月賦払とし、昭和五三年五月から昭和六三年四月まで毎月末日限り金五万円宛(最終回は金一万九〇〇〇円)支払う。
利息は、昭和五三年五月一日から付すものとし、右分割金支払のつどその日までの分を支払う。
(ロ) 特約 被控訴人が分割金又は利息の支払を三回以上怠ったとき、他の債務により仮差押、仮処分若しくは強制執行を受け、又は競売、破産、和議の申立があったときは、期限の利益を失い、直ちに債務を完済する。
(2) 被控訴人は、右債務を履行しないときは直ちに強制執行を受くべきことを認諾する。
との記載があり、
本件(二)の公正証書には、
(1) 控訴人は被控訴人に対し、昭和五一年一〇月一五日、利息は年二パーセント、遅延損害金は年五パーセントとし、元金及び利息の弁済期並びに特約を次のとおり定めて金六二〇万円を貸渡した。
(イ) 弁済期 元金は一二〇回の月賦払とし、昭和五五年五月から昭和六五年四月まで毎月末日限り金五万円宛(最終回は金二五万円)支払う。
利息は、昭和五五年五月一日から付すものとし、右分割金支払のつどその日までの分を支払う。
(ロ) 特約 本件(一)の公正証書の(1)(ロ)に同じ。
(2) 被控訴人は、右債務を履行しないときは直ちに強制執行を受くべきことを認諾する。
との記載がある。
3 しかしながら、被控訴人は控訴人から右のような約定で金銭を借受けたことはなく、本件公正証書の右各記載は客観的事実と一致しないから、被控訴人は本件公正証書の執行力の排除を求める。
二 請求の原因に対する答弁
請求原因1、2の各事実は認める。
三 抗弁
1 被控訴人は、建設請負業を目的とする島本建設株式会社(以下、「島本建設」という。)の代表取締役であり、控訴人は、木原設備工業所の名称で給排水暖房設備工事等の請負業を営んでいるものであるが、島本建設は、昭和五〇年頃から引続いて控訴人に対し、代金は出来高に応じて三〇パーセントを現金で、七〇パーセントを手形で支払うとの約定で給排水冷暖房設備工事の下請工事施工を注文していたところ、昭和五一年一〇月一五日倒産し、その時点で控訴人に対しては金一二〇〇万円余の請負代金債務を負っていた。
2 そして、控訴人と被控訴人は、交渉の末、昭和五一年一〇月末ないし同年一一月一七日被控訴人が島本建設の控訴人に対する債務を引受けたうえこれを目的として金銭準消費貸借契約を締結し、同日東京法務局所属公証人赤澤正司の公証人役場において、同公証人に対し本件公正証書の作成を嘱託し、被控訴人もその債務者欄に署名捺印した結果、本件公正証書が作成された。
右本件公正証書作成に至る経緯についての控訴人の主張は、次の(一)及び(二)のとおり補正するほか、原判決六枚目裏五行目(ただし、冒頭の数字「1」を除く。)から七枚目表一一行目までのとおりであるから、これをここに引用する。
(一) 原判決六枚目裏一一行目の「島本建設の代表取締役である原告」を「島本建設の代表取締役である被控訴人と控訴人の間で右島本建設の控訴人に対する債務の支払につき話合った結果、被控訴人」と改め、同七枚目表一行目の「右倒産の数日後頃」を削り、同三行目の「同年一一月一七日頃」を「同年一〇月末ないし一一月一七日」と、同一〇ないし一一行目の「本件(一)(二)の公正証書」を「本件公正証書」と各改める。
(二) 原判決六枚目裏七行目、一〇行目の「」をいずれも「権」と、同九行目、同七枚目表一行目、四行目、六行目、七行目、一〇行目の「」をいずれも「務」と、同七枚目表一〇行目の「」を「属」と、同一一行目の「委」を「嘱託」と各訂正する。
3 なお、本件公正証書の記載には、前記金銭準消費貸借契約上の債権を、昭和五一年一〇月一五日貸付の元本金五九六万九〇〇〇円(本件(一)の公正証書)、元本金六二〇万円(本件(二)の公正証書)の金銭消費貸借契約上の債権と表示したという、客観的事実と些細な点で一致しないところがあるが、被控訴人は、本件公正証書作成嘱託の際、右のように表示することを承諾していたのであるから、本件公正証書は有効である。
四 抗弁に対する答弁
1 抗弁1の事実中、島本建設が倒産時に控訴人に対して負っていた債務の額が金一二〇〇万円余であることは否認し(その額は約金六〇〇万円である。)、その余の事実は認める。
2 抗弁2の事実中、昭和五一年一一月一七日被控訴人が控訴人主張の公証人役場において本件公正証書の債務者欄に署名捺印したことは認めるが、その余の事実はすべて否認する。
被控訴人が本件公正証書に署名捺印するに至った経緯は後記五2記載のとおりであって、被控訴人は、控訴人主張の債務引受も金銭準消費貸借契約もしたことはない。
五 再抗弁
1 仮に、被控訴人が控訴人主張の債務引受及び金銭準消費貸借契約に応じる意思表示をし、あるいは本件公正証書を作成することを承諾し、その作成を公証人に嘱託した事実があるとしても、これらの意思表示は、次の2記載のとおり被控訴人が控訴人らの暴行、強迫により極度に畏怖した結果したものであって、被控訴人の真意に基づかないものであるから無効であり、そうでないとしても、強迫による意思表示として取消しうべきものであるから、被控訴人は、昭和五六年三月一八日の本件口頭弁論期日(原審)においてこれを取消す旨の意思表示をした。
2 被控訴人が控訴人らの暴行、強迫により極度に畏怖し、その結果本件公正証書の債務者欄に署名捺印するに至った経緯についての被控訴人の主張は、次の(一)及び(二)のとおり補正するほか、原判決三枚目裏末行末尾の「被告か」から同五枚目表一〇行目までのとおりであるから、これをここに引用する。
(一) 原判決四枚目表一行目、九行目、同裏一一行目の「」をいずれも「権」と、同四枚目表五行目、末行、同裏二行目、同五枚目表三行目、七行目の「」をいずれも「務」と各訂正する。
(二) 原判決四枚目表一一行目の「仂」を「働」と、同裏二行目の「」を「備」と各訂正し、同五行目の「首吊り」の次に「自殺」を加え、同五枚目表二行目の「頃」を削り、同三行目の「」を「属」と、同四行目の「事務所」を「の公証人役場」と、同六行目の「委」を「嘱託」と、同六ないし七行目の「本件(一)(二)の公正証書」を「本件公正証書」と、同九行目の「発」を「廃」と各訂正する。
六 再抗弁に対する答弁
1 再抗弁1の主張は争う。
2 同2の主張に対する控訴人の答弁は、次の(一)及び(二)のとおり補正するほか、原判決七枚目裏八行目(ただし、冒頭の数字「2」を除く。)から同八枚目裏四行目までのとおりであるから、これをここに引用する。
(一) 原判決七枚目裏八ないし九行目、同八枚目表四行目、同末行の「本件(一)(二)の公正証書」をいずれも「本件公正証書」と改める。
(二) 原判決七枚目裏一〇行目の「」を「権」と、同一一行目、同八枚目表四行目、八行目の「」をいずれも「務」と各訂正する。
第三証拠関係《省略》
理由
一 控訴人、被控訴人間に、控訴人を債権者、被控訴人を債務者とする本件公正証書二通が存在していること、その記載内容が請求の原因2記載のとおりであることは当事者間に争いがないところ、右争いのない事実に、《証拠省略》を総合すれば、本件公正証書は、金銭の一定額の支払を目的とする請求について、公証人がその権限に基づいて正規の方式により作成した公正証書であって、債務者である被控訴人の執行認諾の意思表示が記載されていることが認められ、執行証書としての要件を備えていることが明らかである。
二 しかしながら、本件公正証書に表示された請求権についての記載が、些細な点での不一致を除き、客観的事実と合致しないときは、実体的に存在しない請求権についての債務名義として、債務者たる被控訴人から請求異議の訴により本件公正証書の執行力の排除を求めることができるところ、控訴人は、控訴人と被控訴人は、昭和五一年一〇月末ないし同年一一月一七日、被控訴人が島本建設の控訴人に対する債務(同年一〇月一五日の島本建設倒産時の金一二一六万九〇〇〇円)を引受けたうえ、これを目的として金銭準消費貸借契約を締結し、同日本件公正証書の作成嘱託をした旨主張するので、この点について判断する。
1 被控訴人は、建設請負業を目的とする島本建設の代表取締役であり、控訴人は、木原設備工業所の名称で給排水暖房設備工事等の請負業を営んでいること、島本建設は、昭和五〇年頃から引続いて控訴人に対し、代金は出来高に応じて三〇パーセントを現金で、七〇パーセントを手形で支払うとの約定で給排水冷暖房設備工事の下請工事施工を注文していたところ、昭和五一年一〇月一五日倒産し、その時点で控訴人に対しても請負代金債務を負っていたことは当事者間に争いがない。
そして、《証拠省略》を総合すれば、次の(一)ないし(四)の事実が認められる。
(一) 前記島本建設倒産の翌日である昭和五一年一〇月一六日から島本建設の債権者が島本建設の事務所に押しかけはじめ、同月一八日には債権者約二〇名が右事務所に集まって債権者集会が開かれた。島本建設の経理担当社員和田俊昭が島本建設の約束手形帳等に基づき債権者一覧表を作成したが、その一覧表によると、同日現在の島本建設の債権者は約四六名、負債総額は約金五二二七万円で、そのうち控訴人に対する債務としては、請負代金債務支払のために島本建設が振出した手形の手形金債務合計金一〇六二万円が計上された。
債権者集会では債権者委員会が島本建設の整理に当たることにし、控訴人を含む債権者委員四名と補助者一名を選任したが、その中で控訴人が一番大口の債権者ということで債権者委員長に選ばれた。しかし、控訴人は、右島本建設振出の合計金一〇六二万円の手形のうち、額面金六〇〇万円相当の手形を工事材料の仕入先に裏書譲渡していたほか、額面金二七〇万円相当の手形を古くからの知合いで街の金融業者であった川田に割引いてもらっていたことから、債権取立に慣れている川田に対して島本建設に対する自己の債権の取立を既に委任していたが、右債権者委員長としての仕事も川田に任せてしまった。川田は、更に知人の稲沢及び大西に対して右債権取立について協力を求めた。
(二) 控訴人、川田、稲沢及び大西は、相談のうえ、島本建設に対する控訴人の債権を取立てるため、同月一八日頃から二三日頃までの間被控訴人を島本建設の事務所に監禁し、時には、他の債権者の追及をかわすべく渋谷区内の旅館等に被控訴人を一緒に泊らせたりした。その間、昼間は、島本建設が有する債権の処分を債権者委員に委任する旨の委任状及び島本建設の所有する備品、資材、機材等の処分一切を控訴人に委任する旨の委任状を被控訴人に書かせたうえ、控訴人、川田、稲沢が被控訴人を連れ回って、島本建設が請負代金債権を有する栗原病院ほか数か所でこれを集金し、あるいは、被控訴人の印鑑登録証が所在不明であったことから、同月一九日、被控訴人を連れて多摩市役所に赴き、被控訴人に印鑑登録証亡失届及び新たな印鑑登録申請の手続をさせ、印鑑登録証明書の交付を受けさせたうえ、右印鑑登録証明書及び登録した実印を被控訴人から取り上げた。夜間は、控訴人らと入れ替るように大西が島本建設の事務所に泊り込んで被控訴人を監視しつづけ、被控訴人に対し、強迫文言を吐いたり、ビールびん、スタンド型の灰皿、電話の受話器等で頭部を殴打し、頭突きをし、蹴り上げるなどの暴行を加えた。そのため被控訴人は、頭部外傷、左聴力障害等の傷害を負った。
被控訴人は、このような控訴人らの仕打ちに耐えられず、監視している大西の目を盗んで事務所の便所で自己のズボンのバンドを利用して首吊り自殺を図ったこともあったが、バンドがはずれ未遂に終わった。
そして、控訴人、川田らは、島本建設が所有していた機材、資材、備品等を処分換価し、島本建設が賃借使用していた事務所の賃貸借契約を解約させて敷金六万円の返還を受けたが、こうして得た換価代金、敷金及び前示のとおり栗原病院等から集金した請負代金は、前記債権者委員会による配当手続を行うことなく、すべて控訴人及び川田がその懐に入れあるいは費消してしまった。
(三) 被控訴人は、同月二四日頃、控訴人らに釈放され、妻子の避難先である狛江市のおじ伊藤明方に身を寄せたが、川田は毎日のように同人方に電話をかけてきて被控訴人を連れ出し、控訴人とともに、執拗に島本建設の控訴人に対する債務の支払を要求した。そこで、被控訴人は、同月末、妻子を妻の実家に避難させ、自らは妻の友人で三鷹市在住の芦田久男方に身を寄せた。被控訴人は、芦田久男の勧めにより、同年一一月二日から、前示のとおり大西の暴行により負った頭部外傷、左聴力障害等の治療を受けるため杏林大学医学部付属病院に通院をしていたが、その間も、川田は、毎日のように芦田方に電話をかけて被控訴人を連れ出し(控訴人ともども、「どこに逃げても必ず捜し出してきちんと整理させる。」「一〇年かかってでも返せ。」などと申し向けて、島本建設の債務の支払を個人としての責任において果すよう執拗に要求しつづけた。そのため、被控訴人は、耐えられず、精神的に極めて不安定な状態となり、もう死ぬなどと言って自己の頭を茶碗で叩いたり、舌をかんだりして芦田に止められるということもあった。
(四) 同年一一月一七日も、川田及び控訴人は、芦田方に電話をかけて被控訴人を連れ出したうえ、島本建設の債務について公正証書を作る旨申し向け、控訴人らによる監禁、大西による暴行、強迫、川田及び控訴人による執拗な呼出し、債務支払の要求という前示控訴人らの一連の行為により極度に畏怖し、憔悴しきって、反抗する気力がほとんどなくなっていた被控訴人を武蔵野市吉祥寺本町一丁目一〇番七号の公証人役場に連れて行き、同役場において、前示(二)のとおりかねて入手しておいた被控訴人の印鑑登録証明書を提出し、同役場の公証人赤澤正司に対し、前記手形金債務金一〇六二万円に控訴人がそれ以外の未払金としてその存在を主張した金一五四万九〇〇〇円を加算した合計金一二一六万九〇〇〇円の債務を二通に振り分けた本件公正証書の作成を嘱託し、その債務者欄に被控訴人をして署名させ、前示のとおり入手していた被控訴人の登録実印を被控訴人に渡して捺印させた(被控訴人が同公証人役場において本件公正証書の債務者欄に署名捺印したことは当事者間に争いがない。)。
なお、右登録実印はその後直ちに川田に取り上げられたので、被控訴人は、同年一二月二一日、右登録実印の印鑑登録廃止申請をするとともに、新たな印章をもって印鑑登録申請をした。
以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》
2 本件公正証書作成に至るまでの経緯は右1認定のとおりであり、これを要するに、本件公正証書は、控訴人並びに控訴人から島本建設に対する債権の取立を委任された川田、川田から協力を求められた稲沢及び大西が相談のうえ、被控訴人を島本建設の事務所に約六日間監禁し、その間、昼間は、控訴人、川田、稲沢が島本建設の有する請負代金債権の集金や被控訴人の印鑑登録、印鑑登録証明書の交付の申請のために被控訴人を連れ回し、夜間は、大西が事務所に泊り込んで被控訴人を監視するとともに、強迫文言を吐きあるいは頭部外傷、左聴力障害等の傷害を与える暴行を加え、被控訴人釈放後も、川田及び控訴人が毎日のように被控訴人の寄留先に電話をかけて被控訴人を連れ出しては執拗に債務の支払、それも特に一〇月末頃からは被控訴人が個人としてその責を負うことを強く要求しつづけ、その結果、極度に畏怖し、精神的に極めて不安定な状態にあった被控訴人を川田及び控訴人が公証人役場に連れて行って、その作成に応じさせたものであると認められるところである。
《証拠判断省略》。また、控訴人は、本件公正証書に記載された約定は、本件(一)の公正証書については一年八か月据置きのうえ一〇年間の分割払、本件(二)の公正証書については三年八か月据置きのうえ一〇年間の分割払、利息も年五分又は二分で非常に低額であるというように債務者たる被控訴人に極めて寛大な内容となっているとして、このことからも、本件公正証書は控訴人と被控訴人がその内容を検討し、自由な合意のうえ作成嘱託したものであることが容易に推認できるとも主張するが、もともと島本建設が控訴人に対して負担していた請負代金債務ないしはその支払のために島本建設が振出した手形上の債務について島本建設の代表取締役である被控訴人個人は当然には何ら法律上の責任を負わない(商法二六六条の三に基づく取締役個人に対する損害賠償請求の要件に該当する事実等、右島本建設の債務について被控訴人に対して支払又は損害賠償を求める請求を理由あらしめる事実を認めるに足りる証拠はない。)ものであり、《証拠省略》によれば、右合意内容も、この程度であれば被控訴人が何とか履行するのではないかとの目途を立てた控訴人の目論見によるものにほかならないと推認されるので、控訴人の右主張も採用できない。
なお、被控訴人が本件請求異議の訴を提起したのは、本件公正証書作成後約三年六か月を経過した昭和五五年五月二三日であることは記録上明らかであり、《証拠省略》によれば、被控訴人は本件訴提起まで控訴人に対し本件公正証書の効力を否定する趣旨の通告をするなどの積極的な対抗手段をとらなかったことが認められるが、自己の意思に反して不当な方法で公正証書を作成された債務者が誰でも適切に対応し直ちに対抗する法的手続をとることができるとは限らないのみならず、《証拠省略》によれば、被控訴人は、昭和五二年初には本件について警察に告訴したほか、昭和五三年には本件訴訟代理人の深道弁護士に相談し、その結果、控訴人が何らか行動を起したときにそれに対応するということで、本件公正証書作成の際交付を受けた謄本二通を同弁護士に預けておいたこと、そして、控訴人が申立てた本件(一)の公正証書に基づく動産執行により昭和五五年五月一五日に自己の動産の差押えを受けたので、直ちに本件訴訟代理人に委任して本件訴提起に至ったことが認められるから、前示本件訴提起まで相当期間経過し、その間積極的な対抗手段をとらなかったとの事実も、前記1の認定を何ら左右しない。
3 もっとも、《証拠省略》によれば、被控訴人は、公証人から本件公正証書の内容を読み聞かせられたうえでその債務者欄に署名捺印したことが認められ、公証人役場における本件公正証書作成手続が正規の手順を踏んで行われたことを否定すべき資料はなく、また、被控訴人が、その作成当時、意思能力ないし意思決定の自由を完全に喪失していたとまでは証拠上認め難いから、本件公正証書作成の時点において、その記載に相応する、控訴人主張のような内容の金銭準消費貸借契約及びその前提をなす債務引受の合意が成立していたこと自体は(既存債務の額が完全に合致するか否かの点で、効力の一部に疑問の余地があるにしても)、これを認めることができる。
しかし、そこにおける被控訴人の意思表示は、前記1、2において認定説示したところを前提とすれば、控訴人らによる監禁、暴行、執拗な債務支払の要求等一連の明らかに違法な行為の結果、悴憔しきって、控訴人らの要請を拒むときは、重ねていかなる暴行を受けるかもしれないと極度に畏怖し、反抗する気力をほとんどなくしていた状態のもとでなされたものであることは、到底否定しえないし、控訴人らにおいても、その直前においては明示の害悪告知行為をしていないにしても、被控訴人が前記のような一連の違法な行為の結果、憔悴の極にあり、監禁当時のような苦痛を受けることを極度に畏怖していることを知りながら、それに乗じ、その畏怖を一層増大させるような状況の継続下で執拗な要求を重ねることにより、被控訴人に個人責任を負わせようとして行動し、本件公正証書の作成にまで持ち込んだものであることは明らかである。
したがって、右債務引受及び金銭準消費貸借契約における被控訴人の意思表示は、強迫による意思表示として取消しうべきものと認められるところ、被控訴代理人が原審における昭和五六年三月一八日の本件口頭弁論期日において右意思表示を取消す旨の意思表示をしたことは記録上明らかであるから、前記債務引受、金銭準消費貸借契約も遡って成立しなかったこととなる。
4 してみれば、控訴人主張の債務引受、金銭準消費貸借契約の存在は認められないこととなり、本件公正証書は、実体的に存在しない請求権について作成された債務名義といわなければならない。
したがって、本件公正証書の執行力の排除を求める被控訴人の請求は理由があること明らかである。
三 よって、被控訴人の本訴請求を認容した原判決は結局相当であって、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし(なお、原判決主文第一項に明白なる誤謬があるので職権によりこれを主文括弧書内のとおり更正する。)、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 横山長 裁判官 野﨑幸雄 水野武)